主語存在の制約によって妨げられる思考
日本語が主語を省略できるという特徴は、数式で表現すれば(\forall x)(F(x) \rightarrow G(x)) を F \rightarrow Gと書くような圧縮を可能にする。このとき主語xが省略されている。これに対して、英語は主語を明確に示すことが基本となっており、文法上、文の構造として必ず主語が必要です。
このような言語の構造的制約は、英語が日本語のような表現を行うことを妨げています。西洋の伝統的な論理学では、命題において主語と述語が明示されることが原則です。しかし、中村元の『空観の記号論理学的解明』に見られるように、仏教論理学やインド哲学では、こうした主語の固定にこだわらない論理展開が認められています。これは、たとえば「火のない所に煙は立たぬ」という表現において、明示的な主語を必要としないコミュニケーションが可能です。
また、伝統的な西洋論理学では、命題が主語と述語によって固定されており、それらを基に推論が行われます。これに対して、インドの論理学や仏教論理学では、主語や存在そのものを相対化する論理が展開されており、これは西洋論理学では矛盾とみなされる場合もありますが、記号論理学を用いると矛盾ではなく新しい論理的展開が可能であることが示されています。これは、英語の言語構造が持つ主語の制約が、論理的な思考の幅を狭める可能性を指摘するものです。
したがって、日本語が表現している意味合いを、英語が主語存在の制約によって表現しきれないという現象が生じるのです。