NISHIO Hirokazu[Translate]
真理性テーゼに関する第二論証「意味論的議論」を捉え直す
o1 Pro
要点まとめ
フロリディの「意味論的議論(SA)」は、意味論的情報semantic information)は必ず真である、という「真理性テーゼ(VT)」を論証する試み。
SA ではまずトートロジー(恒真式)と矛盾式を排除し、不整合も排除する。しかし最後に「偽命題を入れると情報量が減る」ことを根拠に、真でなければ情報たりえないと結論づけようとする。
ところが、そこでは“偽”の命題が「負の情報量」をもつという、一般的な情報理論からはかけ離れた前提が暗黙に導かれる。もし「情報量は常に 0 以上」という通常の前提を保つならば、偽命題を排除して VT を確立する論証は成立せず、「不整合だけを排除した真理中立的な情報モデル」で終わってしまう。
著者はこの矛盾を、「議論領域の区別(命題の集合 D と情報の集合 S の区別)」と「情報量の解釈(確率+真偽を含む認識論的価値の要素)」を丁寧に再構成することで浮き彫りにし、フロリディの論証には“負の情報量”という特殊な仮定が潜んでいると指摘する。
結果として、フロリディの SA は「意味論的情報は真である」という結論こそ掲げるが、一般的な情報理論とは相容れない部分がある。さらに、情報理論的な量的分析と「真である情報」に特別な認識論的価値を与える質的分析が相互に影響を及ぼす好例として、本論文は VT 論争を改めて見直す材料を提供している。

全体の意義
VT(真理性テーゼ)を擁護するフロリディの SA は従来から批判されていたが、本論文はとくに「情報量の負性」という未解明の論点を掘り起こすことで、質的アプローチ(真の情報のみを認めるか)と量的アプローチ(情報量計算)が矛盾なく両立するかを再検討している。
もし「負の情報量」を受け入れないなら、SA は不整合の排除しか正当化できず、真偽を問わない“真理中立”の情報モデルにとどまる。一方、負の情報量を仮定すると確かに偽命題を排除できるが、これは通常の情報理論と大きく異なる。

いずれにせよ、真理性をめぐるフロリディの情報哲学の核心部分を再評価するうえで有益な論考となっている。

nishio
この議論には、ある集合Sを引数に取る関数fにおいてf(S1+S2)<f(S1)ならf(S2)<0である、というタイプの誤謬があるように感じたが、どう思うか?

o1 Pro
回答のポイント

ご指摘のとおり、「ある測度(あるいは情報量)f が集合の和(あるいは併合)に対して単純な加法性をもつ」と仮定し、それを根拠に
f(S_1 + S_2) < f(S_1) \quad \Longrightarrow \quad f(S_2) < 0
を導いてしまうのは、しばしば 測度論的・加法性論的な誤謬 になりがちです。

本来、「f(S_1 + S_2) = f(S_1) + f(S_2) が成り立つ(あるいは成り立たない)のはどういう条件か」を厳密に見る必要があります。特にフロリディの議論では、
「加法性 P2 は“情報の集合が互いに 独立 である場合”に限定されているのではないか」
「偽命題や矛盾する命題を足したときに “全体の情報量が減る” のは、そもそも通常の(単純加法的な)測度では捉えられないかもしれない」
といった点が問題になります。

つまり、もしフロリディ流の“情報量”が本当に「加法的測度」だと仮定してしまうと、
f(S_1 + S_2) < f(S_1) \quad \Rightarrow \quad f(S_2) < 0
という結論に飛びつきやすい。しかし実際には、
加法性が破綻する局面(互いに矛盾する命題を併合する・偽の命題を含む など)では、f(S_1 + S_2) \neq f(S_1) + f(S_2)が起きていて、そこを「負の情報量」と見なすべきかは論理的に飛躍している、
あるいは、フロリディが密かに「矛盾や偽を導入すると情報量が“破壊”されるような特殊な測度」を想定している可能性がある(通常の非負測度とは別物)。
といった解釈に分かれます。

したがって、「f(S_1 + S_2) < f(S_1) だから f(S_2) < 0」という推論には加法性の条件がどこまで担保されているかを慎重に検討しないと、“測度論的な誤謬”に陥りがちです。論文中でも指摘されているように、フロリディの 4 つの原理(非負性・加法性・逆関係原理・情報量 0 の排除)は、実はすべての集合に適用してよいかどうかが曖昧で、議論領域を限定しないと破綻する恐れがあります。

まとめ
結論として 「偽を足したら全体の情報量が減った → だから偽は負の情報量をもつ」という短絡は、
その“情報量”関数が本当にどんなときにも加法的か
偽や矛盾を含む場合に測度がどう定義されるか
を明確化しないまま成立させてしまうと、まさにご指摘のような“誤謬”の疑いが強いです。

フロリディの議論は、そもそも「一般的な情報理論の測度」とは少し違う性質を仮定しており、そこを不問にして “負の情報量” を導くような形は、測度の前提を取り違えたロジック上の飛躍と捉えられます。

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