言葉の使い方とその心理的影響
一行要約:
言葉の使い方は人々の思考や感情に影響し、それを適切に表現するのは難しい。

要約:
言葉の使い方は直接的または間接的に人々の思考や感情に影響を与える。
多くの人々は自らの感情や思考を正確に言語化するのが難しく、怒りや不満を表現するための適切な手段を見つけることが挑戦的である。
>mentane 昨日もワークショップで「『なんで宿題やってないの!?』と言う時、あなたは宿題をやっていない理由を聞きたいのですか?それとも『宿題をやれ!このボケ!』と伝えたいのですか?」と参加者に尋ねたら衝撃を受けていた。間接的な物言いをしている人の多くはそれが間接的な物言いであることに無自覚。
>mentane 間接的物言いをしていることに無自覚な人は、頭の中の思考でも間接的物言いを使っている。その結果、自分の思考や感情をクリアに把握することができなくなる。内心の言語化、メンタライズの不全状態といえる。それを避けるためにも頭の中ではなるべく文字通り、直接的な言葉遣いをしたほうがいい。
>mentane 頭の中では直接的、文字通りの意味での言葉遣いをした上で、他者と関わりコミュニケーションを取る時には、必要に応じて適切な間接的物言いを使うと、円滑で健全な関係を作りやすくなる。
>mentane やはり言葉の使い方はそのまま思考や感情に影響を与えるのだよね。屈折した言葉遣いをする人はたいてい内心も屈折していて、難しい。
>mentane 相手の行動への不満、怒りの表出としての「なんで〜するの!?」という物言いが広く使われる背景に「怒りを持ってはいけない、怒りを表出してはいけない」という世間の規範が影響している。「なんで」を使えば「私は怒っていない」という建前と「私の怒りを感じ取れ」という本音を同時発信できる。
>mentane 「なんで」を使って無自覚に怒りや不満の表明をすれば、他者に対して「怒っていない私」という体面を保つだけでなく、自分自身に対しても「怒らない善人の私」というセルフイメージを守ることができる。
>mentane 「怒らない冷静で善意溢れる私」というセルフイメージを保つためには、「なんで」と問い詰める背後にある自分の本当の意図に気づくわけにはいかない。これが「なんで」が間接的な物言いであることになかなか気づけない理由である。無意識はとても賢く、このようにして自分の心が傷つかないように守る。
>mentane 「毒親」「クソオス」「ビッチ」などある対象への嫌悪感を呼称にあえてのせて語りたがり、そこを控えるように指摘されると烈火のごとく怒る人たちがいる。
>mentane 彼らは「怒ってはならない」という規範にそれまで縛られ、不快感を怒りや不満を抑圧し、怒りの対象とその感情をうまく結びつけられずに辛い日々を過ごしてきた。そうやって生きてくると自分の感情や思考をうまく言語化して把握する能力が育たない。
>mentane それがある日ようやく、その感情はある対象への怒りや不満であると認識する。彼らにとっては目が開くような体験だ。でもまだ感情や思考の言語化能力は未熟で、油断するとすぐに自分の気持ちがわからなくなってしまう。
>mentane そんな彼らが洞窟の暗闇の中でようやく見つけた外界からの明かり、それが親や異性といった対象と自分の中の不快感との結びつきであり、すぐにまたわからなくなってしまいそうなそれを必死で失わないように自分に繫ぎ止める試み、それが「毒親」「クソオス」「ビッチ」などの蔑称である。
>mentane そう考えると彼らがそういった蔑称にしがみつくのは、成長の一過程とはいえるかもしれないし、彼らなりにやれる自助努力、必死のもがきであることは間違いない。だから、あんまり責める気にもなれない。いずれ次のステージに進んでもっと毎日幸せに過ごせたらいいね、とは思うけど。
>mentane 「カサンドラ」「アスペ」「発達障害」「定型発達者優位の社会」そういった概念や言葉も各自が心の中に抱え込んでいた謎のモヤモヤ、不快感の対象を特定し、少しでも気持ちを楽にする機能を果たしているケースが多いなあと思われる。
>mentane 彼らは自分の内心にあるすべてのネガティヴ感情を特定した一つの対象に過剰に結びつける。でも対象が見つからないよりは心が少し安定し、楽になる。何に対して怒ればいいのかわかり、そこに怒ることが社会的に許容される行為だと感じられることで、初めて安心して怒りを感じ取ることができる。
>mentane そのように怒りを向けられる対象は当人が実際に行った問題行為はともかく、それ以上にありとあらゆる悪事の原因とされてしまうことがある。お互いがそれをやりあったりすると、泥沼の非難合戦になる。なかなか難しい。
> ・自分の怒りとは無関係に相手は相手の人生を生きている
> ・怒りを表に出すときには、適切な形やタイミング、その怒りを持つ適切な理由などが必要
> ・怒りの背後には不満と望みがあり、その望みを叶える一番うまい方法が怒りの表出とは限らない
>mentane 連続ツイート後の反応見て、結構みんな「なんで」「どうして」が非難や行動促進として使われていることを知らないと気づいた。マジで驚いている。一方で「『なんで』って言えば、それは『やれ』ってことに決まってるじゃん!」と信じて疑わない人も結構いる。これは確かに戦争が起きるしかないわけだ。
>mentane 今回の連続ツイートで一番大きな発見だったのは「宿題」という単語が出た瞬間に、その単語を含む文章は「いかにして子どもに宿題をやらせるか?」という目的に向けて書かれていると信じて疑わない人が一定の割合で出る事であった。みんな「宿題」って言葉に思い入れが強いのね。
>mentane ぼくは「子どもに宿題をやらせるための声掛け方法」については、連続ツイート内で一切触れていないし、そこにはさほど興味がない。何度そう言っても伝わらない感じはとても面白かった。
>mentane 「なんで祭り」についての雑感、以下のリンク先へのリプライとしてしばらくぼくの連続ツイートがあります。
> >Asailuck: 真面目な話、個別のイシューの議論ではなく、議論の前提となる認知のフレームについて話をする場合、その人の認知のフレームがそれまで形成されてきたその人の人格と切っても切れない関係である以上、「相手の人格を否定せずに議論だけをする」ことは不可能なのではないか、とは思っている。