「事実と解釈を分ける」とか「主観と客観を分ける」というのをベースラインとした上で、立川 智也さんと議論を重ねているうちに「ちゃんと主観してない」「偽の客観」って言葉が生まれてきているのが面白い。
ちょっと引いて観察してみると、これは要するに「主観と客観に分けた時に客観の方が正しいものだ、良いものだ、と考えてしまうバイアスがあるが、状況によっては主観の方が正しかったり良かったりする」ってことなんだな
例えば、オフィスの冷房の温度をどうするかって時に
- 「私は寒い」「私は暑い」とまず主観を出してそこからどうするべきか考えていくのが良いプロセス
- 「なんたら協会によれば25度が最も生産性が高い」とやるのが悪いプロセス
そういうことが必要になるシチュエーションをいくつか考える。
- 例えばキャリアのような個人の主観(何が好きか、など)に大きな影響を受けるものに「偽の客観」で判断すると不幸。
- 新しいものを生み出そうとしている時には、「偽の客観」を作業仮説に入れてしまうとそれが主観を枯らす毒になる。
- 3つ目が上記のパターン。
- これは「複数人の主観が食い違っている状況の解決」なので、偽の客観を持ってきても食い違った人の抑圧にしかならない。
実際に議論してから何日も経ってから、ふっと生まれてくるの不思議だなー。無意識化で処理し続けてたのかな。
「偽の客観」って言葉は、例えば「なんたら協会によれば〜」みたいなもののことを指している
- 自分の主観を語らないことで一見客観的なポーズを取っている
- だけども、自分が主観的に主張したいことにマッチしている他人の発言を持ってきているだけだったりする。
- これが行われる背景に、主観が客観に劣るものだという考えがある
- だからこそ自分の主観を語らないで客観のふりをしているのである。
- で、これに対して、そんなことをしていないで「ちゃんと主観しよう」って話になる
順番としては「ちゃんと主観する必要がある」って話が出てしばらくしてから「〜は結局、偽の客観だ」という形で言葉が生まれていった。
「レゴブロックを使って一人でロケットを作るよりも、二人で役割分担して作った方が、後でどんなブロックがあったかの質問をした時の正解率が高い」って感じの研究があった気がする
僕の認識からは(自分にとって当たり前だからか)ドロップされてたけど、立川さんの認識によれば
- 立川さんが
- KJ法をやってみる
- 付箋を男女軸とかで分けようとして、西尾に「そうじゃない」と言われる
- 主観的な"関連あるかも"という気持ちに従ってグループを作っていく
- この発想の転換が衝撃的
- という経験があった上で、しばらくしてから
- だったらそもそも主観的である「面白いもの」をKJ法すると良いのでは?と気づく
- 試してみて、これが思いの外有益だと気づく
- というプロセスがあった。
主観を「客体化」してるんだよね
- 心の客体化
- 意見を書き出すことによって、それがその意見を持っている主体から切り離されて、操作可能なオブジェクト(客体)になる
原田 惇: おもしろい。
- 主観/客観の世間の使い方って結構ゆるくて、人によって意見の違うこと=主観、みんなが暗黙に合意できること=客観ということだという気はした。
- あるべき部屋の温度は暗黙に合意できないから主観。
- 温度計の温度は一つの事実ではあるけど、それを解釈する人によって意見がばらけたらその温度は主観。温度計が壊れてるのでは無いかとか。
- 今日は暑いねー、そうだねー、でみんなが合意できればそれは客観。ただ、事実とは限らない。真夏に北海道と沖縄で電話してたとすると、違う二つの事実を指して2人が「暑い」を受け入れていて大体の場合「暑い」ことは客観的なものとして受け入れられそう。
大久保 康平:
- 僕が人狼やり始めた頃、俯瞰的な意見ばかり言ってたら先輩に「もっと主観を大事にしろ」って言われたんだよな
- だいたい理系人間が人狼やり始めると、俯瞰視点の意見ばかり言うところから始まるんだが、それだと大量のデータが抜け落ちてしまう。
- 客観と抽象は似てるところがあって、おおよそ当たるけど細かいとこ見ると違いが多い。
- その「細かいところ」が重要な場面で、解像度の低い「客観」に固執するとデータを失う
認知の解像度の話につながったの面白い