nishio 学んだことを再構築してみる。ギアツが「かつては世界は会員制クラブのような同質な仲間の集まりに分かれていたが、今はバザールのように出自や思想の異なる多様な人が行き来する場になった」と考えたのに対してローティは「いや、バザールの周りを無数のクラブが地続きに取り囲んでいるんだ」と考えた
nishio この「クラブ」について僕なりに掘り下げてみよう。クラブのバザールは地続きであって、入りやすいもの入りにくいもの色々なクラブがある。一方の極端には秘密主義でメンバー以外には存在することすら見えないクラブがある。これは現代でも実在している。その極端から少し緩んだものが、
nishio 存在していることや、中でなんか面白そうなことをしてることがメンバー以外にも見えるけど、入り口がどこかわからないクラブのクラブ。そしてさらに緩んだのが、入り口は明示されているが、入会審査のあるタイプのクラブ。この種の「ゲートのあるクラブ」の代表格が同窓会コミュニティだ。
nishio 「見えないクラブ」について自分ごととして考えやすい例を出すと、AさんとBさんが友達の時に「僕たち友達です」と公表する必要性はないので、Cさんがその友達グループのことを知らないことは大いにあり得る。Cさんが「なんで教えてくれないんだ」とか「俺も仲間に入れろ」と言っても通用しないよね
nishio まあ小中学校くらいだと世界が狭いのでこういう「自分の知らないところに自分が含まれてないコミュニティが存在すること」に怒ったり傷ついたりする人もいるが、現代人の多くは大人になる過程で「人はみんなそれぞれ多様なクラブに所属してるもんだ」という学習をする(しない人もいそうだが)
nishio これらの多種多様なクラブの中から「もっとオープンであることが良いことだ」と考えるものが出て来る。例えば「興味がある人なら誰でも参加できる技術トークの場を作るぞ」的なもの。これはもうほとんどバザールなので、クラブとバザールの間に明確な境界線を引くことはできない。
nishio この「誰でも参加できることが良いこと」という思想は、なんらかの理性的な基礎づけができるものではなく、単にそのクラブが歴史的経緯などから偶然にその文化になっただけの、特に根拠のないものである。これがローティのいう「偶然性」
nishio 実際に誰でも参加できる技術イベントが何度も開催されてくる中で、例えば参加者に食事を振る舞うことにしたら技術トークに興味がなく食事だけ食べにくる人が来たり、質疑の時間を自分の演説タイムに使う人が来たり、異性の参加者に対して問題のある絡み方をする人が来たり、という現象が観察された
nishio 「オープンであることが良いことだ」と考えるコミュニティにおいても、バザールと同様の仕組みではいけないという気持ちが高まってCode of Conductが設定されるようになった。つまり「ここは誰でも入れるようにはしてあるけど、バザールではなくクラブなんだよ」ということ Code of Conduct ガイドライン - HackMD
nishio CoCは、つまり「メンバーが共有しているべき価値観」、ロールズの正義論でいうところの「善」の定義を明示しているわけだ。そして重要なポイントとして「主催者は〜追放を含む、適切とみなされる措置を講じることができる」の一文だ。クラブからの追放を決定する権利をクラブの運営が持つ旨の表明だ
nishio クラブを「もっとオープンにしよう、誰でも参加できるようにしよう」とやった結果、そこがバザールであるかのように勘違いされるようになったので、とてもライトなクラブ入会手続きとしてCoCへの同意を求めるようになったわけ。この手続きによって、外のバザールとは違う統治手段が正当化される
nishio このような、自分たちの文化を良いものであると考えて、その他の文化の人を追放したりすることはアリなのかナシなのか。これはエスノセントリズム(自文化中心主義)ではないか、という批判に対して、レヴィストロースは「エスノセントリズムはむしろ良いものだ」と主張した、多様性を維持する効果がある
nishio 例えば「技術イベントに参加して、女性の参加者ばかりに話しかけて1対1の食事に持ち込もうとする人X」が出現した場合、運営は「おいおい、やめろよ」と思うわけね。でも「おいやめろ」と言われたXが「え?何も法律上の問題はないですよね?あなたの文化の押し付けでは?」と言い出すと…
nishio 「人それぞれ異なった文化を持っていてそれに優劣はつけられない、自分たちの文化を押し付けてはいけない」的な考え方をしているとXの主張を許容してしまう。自分たちと異なる文化の人が入って来て場を荒らすことを許容してしまうことは、独自の文化を守って文化の多様性を維持することの妨げになる。