2024-03-20
西尾泰和氏の手稿は、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」の概念について、数学的アナロジーを用いて分かりやすく解説しようとした試みだと理解できます。
要点をまとめると以下のようになります:
この手稿は、数学的知識を持つ人にとっては西田哲学の理解の助けになるでしょう。ただし西田自身は数学的説明を意図したわけではないため、西田哲学全体の理解としては限定的だと思われます。また、因果論と目的論の同一性など、論理的に不明確な点も残ります。しかし現代的視点から西田を読み解く一つの示唆に富んだ試みとして評価できるのではないでしょうか。
2017-08-24 Facebook 西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一を読んでいたのだけど(正確に言えばKJ法のための付箋を作っていたのだけど)よく言われる「Aは非Aであって、それによってA」ってのは何もおかしくなくて、まさにその通りのことを言ってるのだけど、ただものすごく圧縮表現されてるってだけのことなんだなぁと腑に落ちた。 一方で、内容が正しいことと、その説明で伝わることとは全く別物で「非」の意味とか「である」の意味をきちんと伝えないと伝わらないよなぁと思った。
あえてたとえ話をすると、「自己変革」は、現在の瞬間で自己変革をするとしたら、過去の自己と未来の自己は別物でなければならない。過去と未来の差の極限として、現在の自己はAかつ非Aである(これは非連続な関数の下からの極限と上からの極限が不一致なことをイメージすれば矛盾ではない。「である」の意味が一般的な使われ方ではないだけ)
で、もう一歩進めて「Aは自己変革を続ける自己である」というケースを考えると、すべての瞬間で「Aかつ非A」であって、かつそれがAである。Aとは自己変革をする自己である、と定義しているため、「Aかつ非Aである」→「自己変革をしている」→「Aである」が成立する。これを数学なしで表現すると「Aは非Aであり、それによってまさにAである」となる。
西田幾多郎の概念は難解だって言われるけど、数学の極限の考え方を、数学の言葉を一切使わず哲学の言葉でしゃべっているからなだけであって、数学的に考えればそんなに難しくない。数学を使わずに無理して話すから「Aは非A」みたいなことになる。彼の前の著作にある「無の場所が存在する」も+1を繰り返した極限としての無限大が「概念として存在する」けど「数の体系の中には存在しない」ってのと同じことだし。
本文中に何度も「作られたものから作るものへ」と出てくるのだけど、これが世界の自己変革なわけだ。西田幾多郎は、世界は、自己変革を続ける世界だ、ということを考えていて、それを突き詰めていった結果上のような議論になったわけだ。
後、そもそも論として、西田幾多郎は「世界は自己変革するものである」という自分の世界観を述べているのであって、その世界観を成立させるための条件を詳しく考えて行ったら「絶対矛盾的自己同一」だという結論になったという話をしている。「世界は自己変革するものである」というところを論証しようとはしていない。だからその論証が書かれていると思って読むと混乱するのだ。
あと「Xでもnot Xでもなくて、その合体だ」ということを彼は言おうとしているのだけど、大部分の人にとっての素朴な世界観はXなんで混乱するのである。ちなみにこの素朴な世界観Xってのは「現在が過去によって決まる世界」「不変的原子のような個物が相互作用してる世界」だ。
この世界観Xは、物理的にはしっくりくるものだと思うけど「でも人間が意図とか目的とか持って行動するのとうまく合わないよね」って言ってる。
それのアンチテーゼとしてのnot Xの世界観は何かって言うと「現在が未来から決まる」「未来にこうであるという目的から逆算で現在が決まっている」という世界観。これは物理的な世界観の人からするとギョッとするかもしれないけど、例えば世界が全知全能の神によって設計されていて、今現在起きていることはすべて我々には計り知れない神のご意思なのである、という思想をイメージしてもらえば、不可能な世界観ではないことがわかるだろう。
そういう矛盾的なものが同一である、しかも自己と同一である、というわけで「絶対矛盾的自己同一」なのだ。
若干うまくつながらないところがある(因果論の世界から目的論の世界に自己変革するわけではあるまい、とか)が、まあだいぶ進んだし、もう寝るとしよう。
個物は、自分が行動の主体にならない、極限。これを述語という?
個物が「ある」と言うから、意思の有無とは別に主語にはなりうるのか。そして、個物が「ある」と言うとき、それは「どこそこにある」という「場所」の概念を伴う。で、場所があるというとき、それも同様に場所の場所にある。その極限が無の場所。
まず主語が分化する前の純粋経験について考えて、それが行為の主体としての自分と、行為の客体としての自分に分化すると考えたのが先にある。そういう初期の著述と後期の著述では「逆対応」があるので、区別せずに混ぜて読むと混乱する。
実験1 以下で、Scrapbox上での構造化を試みたが、適切ではないと判断し中断した。 「~は~である」「~は~ではない」という記述を付箋化してKJ法すると面白いかもね。
以下P1は「段落1を指す」
ここまでScrapbox上での構造化を試みたが、適切ではないと判断した。