啓蒙専制主義
>啓蒙思想では従来の君主権力を否定する一方で、ジョン・スチュアート・ミルの論考に見られるように野蛮人(野蛮状態)を啓蒙するためであれば専制政治は正当な統治形態であるとする説もあった。自然法や社会契約説に基づく人権や平等の思想は、啓蒙専制主義でも認められるものの、それはあくまで開明的な専制君主の恩寵によって人民に与えられるものだとされた。よって啓蒙思想で発達した権力分立などの政体論も、あくまで君主権力を補佐するものとみなされた。啓蒙専制主義国家では農奴制が廃止されるなど一定の平等主義が導入される一方で、共和制や、あるいはイギリスのような立憲君主制と比べ、議会の権限は弱かった。またロシアのように専制政治の下でかえって農奴制が強化された事例もある。

該当箇所は、ジョン・スチュアート・ミル『自由論』John Stuart Mill, On Liberty、1859年刊、第1章 “Introductory”、印刷頁23です。前後の議論は22〜24頁にまたがっています。
>“Despotism is a legitimate mode of government in dealing with barbarians, provided the end be their improvement”
直訳すれば、「野蛮人を扱う場合、その改善を目的とするなら、専制は正当な統治形態である」です。さらに同じ文の後半で、手段についても、実際にその改善を実現していることによってのみ正当化されると条件を付けています。したがって、引用された説明の核は確かに原文にあります。
ただし、前後を読むと重要な限定があります。
ミルはまず、成熟した人々から成る「文明社会」において、本人の意思に反して権力を行使できるのは他者への危害を防ぐためだけだ、という
他者危害原則を述べます。しかし、子どもや、社会全体が未成年状態にあると彼が見なした「後進的な社会」は、その適用対象から除外されます。そして、自由で対等な討議によって
自己改善できる段階に到達したなら、本人自身の利益を理由とする強制はもはや認められず、他者の安全のためにだけ認められる、と続けています。
ミルの専制容認と、「人権は開明君主の恩寵として与えられる」という啓蒙専制主義の説明は、同じ論理ではありません。 ミルの場合、自由も専制も、人間の発達にとってどちらが有用かによって条件付きで正当化されています。
後年の著作では、専制の暫定性がさらに明確になる
1861年の『
代議制統治論』Considerations on Representative Government で、ミルは「善良な専制」を移行段階として論じつつ、専制下では人民が政治的に受動的になるという問題を指摘しています。
改革的な専制君主が人民を本当に教育できたなら、教育された人民はやがて統治への参加を要求するはずであり、それが専制君主による教育の最良の成果になる、と述べます。また、例外的な緊急時に自由への障害を除去するための一時的独裁を除けば、「善良な専制」を理想的統治と考えるのは誤りだ、という方向に議論しています。
一方でミルは、この発達段階論を
植民地統治にも適用しています。したがって、先の一文を単なる比喩や不用意な言葉遣いとして無害化することもできません。思想史的には、これは18世紀の「啓蒙専制君主」論そのものというより、19世紀自由主義の内部に組み込まれた、植民地主義的・発達段階論的な例外と見るのが適切です。