from 尾鷲2024-01-23~24 坂田昌子の『内なる自然』の概念 土中環境と生物多様性をつなげる坂田昌子さんの『内なる自然』の概念について
自分達でやるのではなく、最近はなんでも「行政にやってもらえ」となっている。かつて公は自分達のことだった。それがいまは、行政だと思っている。
自然というのは私的所有に向いていない。
ウチの土地に入ってくるのが木であっても許せない。みたいなことが起きているわけですよ。人間が勝手に境界線をつくっているだけで、自然は関係無いから。無理矢理境界線を引くこと自体に無理があるわけです。
タラノメを摘むときに、一番芽は摘んで良いけれど、二番芽摘むと、次の年に出てこない...『タラという植物がどのように生きているのか?』っていうことへの知識と『自分が食べたいから』という興味がワンセットになっていないと解らないですね。
川の水を飲まなくなったとたん、みんな平気で川にゴミを捨てる。つまり、川の水を飲んでいたときは、コモンズとしての川に、ゴミなんて捨てられないわけです。家の中の閉ざされた空間で、水道ひねって水が出てくるようになると水道の向こうがどうなってるかという想像力を、私たちは失ってしまう。そうすると川と水道が繋がらないので、どこにいても平気で川にポイポイごみを捨てる
内なる自然が無いところでコモンズを作ってもコモンズの悲劇が起こる
自然との関わりを持たない限り『内なる自然』が生まれようがない
資本主義は、どのようにコモンを解体してきたのか 15世紀(〜17世紀)にイギリスの領主達によって囲い込み(エンクロージャー)っていうことが始まる
日本のコモンズの解体は、鎮守の杜が解体されることから始まった 南方熊楠が必死に抵抗 さまざまな共有地、森、入会地っていうものを、私的所有する形で解体される。あるいは国の物になるという形で、そこに入ったり、勝手に採ってはいけないとされる。
自然による生産手段を全部奪われ無産階級(プロレタリアート)として都市に流入する
知の囲い込み、図書館は役割を放棄していく 本来知識というのはコモンズ的な性格がある
資本を増やすことが労働となったが、これは限りない
自分の欲求、あるいは人々の欲求を満たす為ではなくて、資本の為に働くようになる
自然と切り離されたから、資本主義を内面化するようになる
生産に関する知というコモンズが囲い込まれている
イヌシデを使うのか?モミノキを使うのか?これらの木はいっぺんに腐ります。クリだったら焼いたら15年は持ちます。
労働に基づく所有・保有の復権
たえず自然に不平を言っている非常識な人々よ。 君たちのあらゆる不幸は、君たち自身から生じていることを知るがよい ジャン・ジャック・ルソー『告白』
都会の人の脆弱さで「仲間入りしたい!でも、ヨソモノって言われちゃう・・・」だってヨソモノじゃん。だけどヨソモノだから言って良いんですね。っていうことを宮本 常一はそのときに言っていて、これはとても大事なこと。やっぱり地域の人はコモンズを解体されちゃっているので。今、何をやってるかの方が重要なんだっていうことは、自信を持って良いんですよね。