NISHIO Hirokazu[Translate]
一つの宗教的に固執しないことに価値を見出す宗教
gpt一つの宗教的アイデンティティに固執することなく、多様な信仰を包容することに価値を見出している

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gpt要約
この議論は、日本の宗教観に対する複数の視点を提供しています。まず、iiduna_yutakaは、日本人が多神教の原理に基づいて生活しており、イスラム教キリスト教のような一神教の信者から見ると、古代ローマ人のように感じられるかもしれないと指摘しています。この見解は、日本の宗教的多様性が外から見ると時代遅れに見えるかもしれないという考えを示唆しています。

KencKtokは、新渡戸稲造が「武士道」を執筆した理由を、日本が多神教であっても、日本人には一定の道徳規範が存在することを世界に知らしめるためだと解釈しています。これは、日本の宗教観が単純な多神教の枠を超えていることを示唆しています。

menokurumaは、日本が多神教よりも多宗教的な社会であり、特定の宗教に属することを避ける傾向があると指摘しています。また、多神教と一神教の違いに関する西洋や中東の視点が必ずしも普遍的ではないこと、さらにカトリックの宗教実践が多神教的要素を含んでいることを示し、一神教と多神教の間の明確な区別が常に存在するわけではないと主張しています。最後に、一神教の見方が必ずしも「進んでいる」とは限らず、そのような見方自体が時代遅れである可能性があると述べています。

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>iiduna_yutaka 正直、日本人は「本人たちはぜんぜん自覚してないが、かなり多神教原理主義」だと思ってるので、イスラムとかキリスト教からすると、古代のローマ人相手にしてるみたいで「遅れてる」と思うか「めちゃくちゃやばいやつら」と思うかのどっちかなんじゃないかという気はしてる。

>KencKtok だから新渡戸稲造は武士道を執筆して日本は多神教ではあるけど、日本人にも一定の規範はあるんやでって知らしめようとしたんやろうなぁ。

>menokuruma 多神教というより、社会が多宗教的であることを良しとして、一つの宗教に所属/帰依して「◯◯信者」という枠に収まることを極端に嫌っている人が多いと言った方が実態に則していると思う

>menokuruma そもそも西洋・中東世界でたまたま多神教→一神教という社会変化があったから「多神教は遅れてる」という感覚を抱くのかもしれないが、初期キリスト教と比べてカトリックのマリア・守護聖人/天使信仰はかなり多神教的だし、今の仏教からは想像がつかないけど初期の仏教は完全な一神教。

>menokuruma ヒンドゥー教のように一神教の集合体で多神教のように見える宗教もある。
> 多神教を「一神教が誕生する過程」と捉えた学説は前時代に存在したけど現代では否定されているので、一神教の信者でもその辺りの知識のある人なら多神教を「遅れてる」とは思わないと思うし、むしろその発想が遅れてる


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