2026/9/9
自己決定することが良いことであるというのはファクトなのか宗教なのか
>nishio 週末に社会情報学会で話す内容を考えてたら新しい例え話ができた:
> 社会参加とか政治参加とかいうと大仰なものに感じてしまったり、投票とか出馬とか抗議デモとかみたいな手段を連想してしまったりすると思うんだけど「自分たちの居場所を、自分たちにとってよくすること」と考えると、
> 中高生が自分の部活動の部室を居心地良くするのは社会参加だし、どんなふうにするかの議論に参加するのは政治だよね
> 漫画研究部と鉄道研究部では貼りたいポスターが異なっているかもしれなくて、これがコミュニティによって価値観が異なるということ。
> 教師としては問題のない範囲で自由にやってほしい、どんなポスターを貼るのが最適だとか口を挟みたくない。
> 同様にAIが大部分の人間より賢くなったとしても全てを決めるわけではない
> 人間が自己決定することによるメリットの方が自己決定を許すことによるデメリットより大きい領域が残る。
> 先生が生徒に「自由にやっていいよ」と任せた場合、制約条件を逸脱するリスクがあり、なので「何はやってはダメか」という制約条件を言語的に記述する必要がある。これがルールの誕生。制約条件の記述コストが高いと、情報量少なめの記述で雑に広く禁止される、これは本来得られた自由決定の裁量が情報流通のロスによって失われている。
> AIがルールの判定を支援するなら自由は増えるのではないか?
>nishio (Astra)人間の情報処理能力の限界によって、本来は許せることまで禁止されているのではないか。AIが制約条件の記述と個別の判断を支援すれば、同じ制約を守りながら、自由に任せられる範囲を広げられるのではないか。
> これは、知的生産性への関心から社会参加までをつなぐ筋になります。考える能力の増強が、任せられる自由の拡大につながるという仮説です。