日記2026-03-25
この日記ページは井戸端に書かれた後手動で移植された
4:30に目覚めてしまった、疲れてるはずなのに
もう一回寝よう
6:00、やはり眠れない
思考が捗る
寝ようと思ってるからSNSを見ない
しかし脳は動いてるので、ここしばらくの考え事のうちスッキリ解決されてなかったものが静まった池の表面にポコリと泡のように浮かんでくる
最近、個人Cosenseのpin-diaryを止めてるんだけど、こういう時にどこに書き出すか迷う
今までだったら個人の日記に書いてた
これは意外
日記に「その日にあったことをなんでも書くところ」という認識があるのに対し、週記に「その週にあったことをなんでも書くところ」とすることに違和感がある
週記を暗黙に「振り返ってまとめたもの」と思ってるんだな
「思考の結節点」という日時付きページを作ったりもする
まあこれが妥当な気はする
今回は井戸端日記に書いてみた
この感覚わかる

水面が静かになって湧き上がってきたものを書き留めたい時は静かな方がいいよねという気持ち
だけど今日は朝6時なんで寝てる人が多いからここでもできるかもなというチャレンジ
これはリプライを書くなという意味ではない
良さそう、「井戸端で静かに書きたい」みたいな微妙な機微を満たせる

新しいページにタイトルなしで書くのはどうだろう

ページ一覧が汚く?なるのは気になるかも
「嫉妬してしまう気持ちをどうしたらいいのか」という会場からの問いについて僧侶がAとnot Aの話をしたのに対する僕のそれはPluralityの視点からも説明できるよという補足
具体的な嫉妬の例として「あなた」が「金持ちのAさん」に嫉妬しているとする
でもあなたとAさんが共同のプロジェクトを遂行している場合、チームメンバーに金持ちがいることはプロジェクトに有益
その「プロジェクトがある状態」を基準にして、現状なぜ「プロジェクトがない」のかを考えると、あなたが「あなた」と「Aさん」の間に境界線を引いて「あいつら」とまとめてしまってるから
「あいつら」と一緒に何かをするなんて思いもつかなかった、となる
この「あいつら」がAで、あなたがnot Aで無自覚に分けてしまっている
この「実在しない境界線を心が勝手に作り出してしまっていること」によって、あなたはある種の実利を無自覚に手放して損をしている
だから嫉妬しないようにする、ということはできるものだろうか

難しいなら、距離を置いて気にしないようにするという実利を取るのもありな気がする
整合性のネットワーク
いろいろなものを繋げることによって大きなネットワークを作る
ネットワークの大きなものが強い?
論理的にはそうではないがホモサピエンスがそう判断するシチュエーションは多い
30代をピークにハードウェア的には衰退するホモサピエンスが、なぜか50代とかでも20代に対して優位なポジションを取りうるのはなぜか
ネットワーク規模の力によるのでは
「過去にやったこと」は歳を取るほど多くなるので20代と50代が意識的にネットワークを構築した場合、50代の方が有利
反科学的なたとえば地球平面論者は、科学のネットワークにしっくり整合してなかった、その後に反科学のネットワークに取り込まれてしまった
フィルターバブルで観測範囲が狭まると地球平面論のネットワークの方が大きく見えるようになる
いろいろな考えていたことと関連している
後で切り出してリンクを貼るのが正しそう
ここでSlackとX.comをチラ見してしまった
書き出し疲れ?
「みんなが合意したルールでゲームをした」と主張するためには合意に至るまでルールの議論が行われないといけない
これをやることが善という意味ではない
「合意する機会がないのに合意したと主張するのは嘘だよね」の意味
「合意に至るまでルールの議論をすること」を「楽しい」と思わない参加者がいるなら、ゲームマスターが「私が判断します」で進めるのは合理的な解決の一つだと思う
「ルールの判断をゲームマスターに委ねる」というメタなルールがある
究極的にはこれに合意できる人だけで集まれば良い
これに合意できるかどうかはゲームマスターの人柄による、AさんがゲームマスターならOKだが、Bさんをゲームマスターにするのは嫌、ということはあり得る
これは主観的
人柄のいいワンマン社長は、良いリーダーとも言える
「このルールが気に入らないやつは自由にゲームをやめても良い」が前提としてあるなあと思いました

関連してるようなしてないような話
「みんなの楽しさのために」というフレーズ
何に楽しさを感じるかは参加者によって異なるのだから「みんなの楽しさのために」で共通の結論に至ると思うのはおかしい
ゲームマスターがこの発言をするとき、それは「みんなの楽しさ」ではなく「私がなるべく多くの人が楽しくなると思う方向に判断しますね」というべき
その判断は必然的に一部の人の楽しさを削ってるわけだが、その人たちは「ゲームマスターの判断に任せる」というメタルールに合意しているために、その楽しさの減少を受忍してる
ここにマイナスは実在している
このマイナスを無いかのように考えたり主張したりすると主観的に「嫌なゲームマスター」に近づく
少数派を迫害する独裁者的になる
脳内だけで考えていると堂々巡りしがち
書き出していくと明瞭な境目のない文章ができる
が、時間軸が1次元であることによって「時間的に近接して書かれた文章」というつながりが可視化される
書き出した後でそれを俯瞰して、切り込みを入れることができる時もある
書き出していくときに過去のページへのリンクをつけるべきかどうか
書き出している最中に素直に思い出せるものはぜひ書いたらいいと思うが、「確か書いた気がするな、なんだっけ」と検索しはじめると「書き出し」のモードではなくなる感じがある
「関連することを書いたな」と思って見つけてそれを読むことによって化学反応が起こることもある
どっちがいいとも言えないな
今回、自分のCosenseではなく井戸端日記で書き出しをしたことによって、過去の関連ページに対してリンクを貼るのが「ちょっと面倒」になり、それによってその行動が抑制された
やってみた感覚としては、リンクをつけることに脱線しないで思考を書き出すことに専念できた感覚に良いものを感じた
ぽこポケと同じでワーキングメモリが限られてるから途中で別のことをすると忘れてしまう
タスクの途中で忘れてしまうと未完成のタスクが残りスッキリしない
静かな池の表面に浮かんでくる泡は、完了になってないけど忘れてたタスクで、表面的な情報の嵐が収まったことで中から出てくることができた