誤った二分法と脱構築
僕自身はそれを「
脱構築」というラベルでは認識してない(共通点はあるようだが)
「既存の哲学理論の中に誤った二分法がある」というよりは「色々な人の色々な思考の中に誤った二分法がしばしば現れる」という認識をしているように思う
もちろん過去の哲学者の哲学理論も「色々な人の色々な思考」のインスタンスなので矛盾はしないんだが。
なるほど、あくまでも「脱構築」と言うプロセスの一部..?

「脱構築」という言葉を狭義・オリジナルのデリダの脱構築:
>同じ著者のテキストのなかに、なんらかの絶対な真理を打ち立てようとする傾向と、反対に絶対な真理を解体しようとする傾向との、2つを同時に読み取っていくことをいう。脱構築的読解とも呼ばれる。
という意味で使うなら、僕がやってることとはなんら関係ない
「脱構築」という言葉をデリダより後に色々な人が使った意味で使うなら、現時点では僕はその単語の定義が明確ではないと感じてる(何でもブロックチェーンで解決しようとするようなバズワードの気配を感じている)のでYesともNoとも言えない
「多少共通する雰囲気はありそうだな」ぐらいの気持ち