「教育に関心=成長は終わり」論
文脈
>(承前) つまり「教育に関心がある」とか言い出したら、その人自身の成長は終わりってことです。本人が自覚したからこそ、そういう発想になる。(続く)
>あたしは対談とかも含めいろんな人に会うんだけど、基本、「自分がコレを成し遂げたい」ステージの人はめっちゃおもしろいけど、「後に続く人に自分の学んだことを教えたい」モードの人と話しても全然おもしろくないんだよね。
肯定的意見
実際、本人は大したことがないのに「教育したい」と言い出す人は、しばしば観測される
自分自身が何かを成し遂げようとしている人に、無理を言って講演をしてもらう方が、教えるモードの人にやってもらうより面白い
否定的意見
教えることによって学びがある
西尾の意見
「教育」という言葉が曖昧、2種類に分けて考えるべき
期待する成果があり、その成果が得られたかどうかで成功/失敗を判定できるもの
自分が教育に携わったということ自体が成果であり、成功/失敗のないもの
成長に寄与するのは、「できるかどうかわからないものへのチャレンジ」である
つまり「前者の教育」は成長に寄与するが、「後者の教育」は成長に寄与しない
チャレンジに時間を割かなくなると成長が止まる
「後者の教育」をやりたがる人が、他の領域でもチャレンジを避けているなら、成長は止まる
「教えることによって学びがある」が目的の場合は「学びがあったかどうか」で成功/失敗判定できるので成長できる
初出 2013-09-18 サイボウズラボ内掲示板にて
>教育を2種類に分けて考える必要があるように思います。
> 受験生を教育してなるべくたくさん合格させるとか、おちこぼれ学生を授業についていけるようにするといった、成果が観測しやすく、成果の教える人の技量による割合の大きい教育と、
> セプキャンの講師や勉強会の主催といった、何が成果か明確でなく、仮になにかすごいものができたとしても、それは作った人がすごいのか教えた人がすごいのかよくわからん、といったたぐいの『教育』とです。
> 成長のうちのある程度の割合は「できるかどうかわからないものへのチャレンジ」から生まれるものかと思いますが、後者の『教育』はチャレンジではありません。
> 後者の『教育』ばかりを好んでやるようになると、その人の人生におけるチャレンジの割合が減るので結果として成長の速度は鈍るのでしょう。
> なので『「教育に関心がある」=「成長は終わり」は暴論』には賛成ですし、かつ「技量の関係ない『教育』にばかり関心がある→成長は終わり」にも賛成です。
> 『教える人の技量が大きく「成果」に影響する(ようなタイプの教育)』はチャレンジなので成長の速度は鈍らないと思います。