まだ本気でコピーしてない
muneo_note サカナクションの山口さんが「
オリジナリティの作り方」という動画の中で「コピーの仕方」について次のように語られていたのを聴いて非常に大きな衝撃を受けたことがある。今回、限界読書さんの記事を読んでその時の衝撃が鋭く蘇った。
山口さん:
俺も音楽を好きになる時に、いろんな人の音楽を聞いて感動して「その人になりたい」「その人のように曲を作ってみたい」と思ったわけよ。文学でも「この人のように言葉を扱えるようになりたい」と思って、めちゃくちゃ読んだし聞いた。で、自分でそれを真似してみるのよ。でも、全然コピーできないのよ。全然同じようにいかなくてイライラする。でもひたすら真似するの。そうしたらそのうちに「手癖」になるのよ。自分のものを作ろうと思った時に、その手癖が出てくる。でもそれは(元の)その人じゃないのよ。「自分」になってるの。その通りにならない、その人のようにできない自分が「オリジナリティ」になってるのよ。それが才能よ。 誰もが最初から何も見ずにいいものなんて作れないじゃん。だから、好きなものをどれだけ深く理解できるか、あるいは無意識に理解できているかっていうのが、本当のオリジナリティへの近道よ。だから多分、まだ
本気で「コピー」してないんだと思うよ。そのコピーっていうのは、真似して書くことだけじゃないじゃん。その人がどういうものに影響を受けてきたかとか、どんな道具を使っているのかとか、誰が関わっているのかとか。完コピっていうのは、ただ単に同じものを書くことじゃないのよ。その背景や細かいディテール、詳細をどこまで深掘りできるか。 それが本当の意味でのコピーなんだよね。しかもそれを一人に対してだけやるんじゃない。何人ものクリエイター、好きなものをたくさん持っておいて、いっぱい真似しなきゃダメよ。そうすると混ざるから。それが自分のオリジナリティになるんだと僕は思ってる。それが出来上がってくると、自然に周りから評価されるからさ。だって他にいないんだもん、そんな人。
この議論に関して、
ドゥルーズが山口さんの話に近いことを言っていると思ったので、以下に補足です。
同一の対象を模倣しようと繰り返す中で、物理的・精神的に全く同じ反復は不可能です。繰り返すたびに生じる微細なズレや、反復そのものが持つリズムの強度が、模倣対象にはなかった「特異性」を生成します。オリジナリティとは、模倣の先にあるゴールではなく、模倣という行為を極限まで反復した際に、その過程で自動的に発生してしまう「他とは違う何か」を指します。
オリジナリティとは主体のコントロール下にある「成果」ではなく、主体が先達や伝統という巨大な他者に「侵食」され、それと格闘し、あるいはそれに奉仕した結果として、いわば「事故」のように発生してしまうものなのでしょう。
山口さんの「コピーしきれなさがオリジナリティになる」という話と、ドゥルーズの「模倣や反復はそもそも本質的に差異を生み出す運動」という視点が、ここまで綺麗に接続されるのかと、とても興味深く拝見しました。
完コピを目指して反復するほどに、どうしても生まれてしまうズレや手癖が、そのまま特異性として立ち上がるという感覚が、言語として一段深く腑に落ちた気がします。
オリジナリティとは、作ろうとして得るものではなく、偶然こぼれ出てしまった差異の集積なのかもしれませんね。
とても豊かな視点を教えていただき、ありがとうございます。