NISHIO Hirokazu[Translate]
視野の外で形成される影響力

>weiwei882288 日本社会では歴史的に、「内(世間)」と「外(世界)」を峻別しつつも、実質的には「世間」こそが生存に必要な世界のほぼ全てであった。島国という地理条件、単一言語社会、村落共同体を基盤とする社会構造のもとでは、異文明と恒常的に交渉する必要が乏しく、世間の評価=「世間体」が全てであり、世間からの排除=社会的死という関係が成立していた。こうして「世間」は、本来の世界の代替物として十分に機能しており、日本人は世界を相対化して捉えるメタ認知を発達させる必要がなかった。
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> 明治以降、日本は近代国家として国際社会に参加し、国際法に基づく外交・グローバル資本主義の経済を導入した。しかし、制度や形式は近代化しても、人々の認知の前提は更新されず、「世間=世界」という感覚が温存されたままだった。その結果、日本の内側の常識や論理を、そのまま外部に適用し、外国人や異文化を「世界の主体」ではなく「内の基準で評価・処理できる対象」として扱いやすくなった。外部の人間がどのような履歴ネットワーク影響力を持つ存在なのかを確かめる発想自体が弱いのである。
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> さらに日本社会では、影響力は肩書や組織、年功といった可視的で制度内のものとして理解されやすい。一方、現代世界の影響力は、オンラインからオフラインまで、国境や言語を越えた非公式ディアスポラ・ネットワーク専門コミュニティなど、日本人の視野の外で静かに形成される場合が多い。日本人の「世間」の内側だけではこうした「見えない影響力」を想像できないため、日本社会の文脈に適応していない外国人や無名に見える他者を軽視・排除しがちになる。その結果、別の座標系では影響力を持つ相手を無自覚に敵に回し、後になって不利な形で現実に跳ね返ってくる構造が生まれるのである。

これに近いことを僕は別の経路で理解したと思う
内世界としての世間と外世界としての世界があるのと同様に、社内世界と社外世界がある
社内世界における評価をどう構築したらいいかわからなかった時代に、社外で評価されることで「社内世界での評価はあんまり気にしないでいいのでは」と思った
もともと博士号は特定の企業の枠に収まらない評価軸だったわけだし
専門家は会社の外に専門コミュニティを持ちがち
社内からまだあまり見えていない社外の領域で活動し、影響力を獲得してから、社内に何かの価値を持って帰ってくる
2025年にはわかりやすい事例としてAudrey Tangがサイボウズの日本橋オフィスにやってきて社長と対談動画を撮った
2012年にサイボウズ式の誕生、文化を社外に発信し、社外がその発信が評価された
このことが事後的に社内に対する影響力を強める効果になった

>weiwei882288 西洋の「罪の文化」が内面化された良心を前提とするのに対し、日本の「恥の文化」——ルース・ベネディクトの古典的分析——は世間の視線を絶対的審級とする。
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> この構造において、道徳や正義は世間の承認と同義となる。「正しいかどうか」ではなく「世間がどう見るか」が行動原理となる。これは強力な社会統合をもたらすが、同時に世間の外部に対する想像力を不要にする。世間が全てである以上、世間の外の評価は無関係だからである。
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> ここに「世間=世界」という認識論的誤謬の起源がある。日本人は「世間」の評価には極度に敏感だが、「世間」の外の「世界」での評価(非日本語の言論空間、国境を横断するディアスポラネットワーク、民族単位とは関係がない専門コミュニティetc...)には構造的に鈍感である。なぜなら、歴史的にそれは生存や承認に関係する「世間体」と無縁だったからである。

GPT5
提示ポストの主張は大きく言うと、
日本は歴史的に「内=世間」が生活世界のほぼ全てで、世間体/排除が生死を決めたので「外=世界」を相対化する必要が弱かった
明治以降も制度だけ近代化し、認知の前提(世間=世界感覚)が残ったため、外部の影響力(越境ネットワーク等)を見落として地雷を踏む
これを「恥の文化/罪の文化」(ベネディクト)で説明できる
…という筋だと思います。批判的に見るなら、弱点はわりと明確です。

歴史叙述が “強すぎる”
「島国・単一言語・村落共同体→異文明と恒常交渉が乏しい」は一面では分かりやすいけど、一般化が荒いです。江戸期でも対外交易(長崎)や外交(朝鮮通信使など)は継続していて、「国全体として外部と無縁」は言い過ぎになりやすい。(Nippon)
(むしろ「誰が外部と接触していたか=階層・地域で偏りがあった」が論点になりそう。)
「日本=昔からみんな同じ日本語だけ」みたいなイメージがあるけど、実際はもっとゴチャついてました
方言差が大きい
昔は今より地域差が強くて、同じ「日本語」でも相互理解が難しい場面があった(=内部に“翻訳”が必要)。
少数言語がある
たとえば琉球諸語・アイヌ語など、日本の中にも別系統の言語がある(=内部に“異文化”がある)。
対外語もある
漢文・オランダ語など、特定層は外国語と関わっていた(=外部との交渉がゼロではない)。

「世間」が一枚岩という前提が危うい
“世間=みんなが共有する1つの評価基準”として話を組むと強い物語になりますが、実際には 身分・地域・ジェンダー等で「それぞれの世間」 がありうるし、近代化・移動・産業構造で世間のあり方自体が変わる、という慎重論が出ています。(hokuriku-u.ac.jp)
この観点に立つと「世間=世界という誤謬」というより、複数の世間のどれを参照しているか が問題になりやすい。

恥の文化罪の文化」は便利だが、学術的には刃物
ベネディクトの枠組み自体が「二分法の鈍器」になりやすく、批判も多い。Lummisは『菊と刀』が(正確な記述というより)政治的文書として強い影響力を持ち、二項対立ツールを大量生産した点を批判的に論じています。(Asia-Pacific Journal: Japan Focus)
また、比較文化を「恥型/罪型」に割ること自体への批判(Dore などへの言及)も早い時期からあります。(J-STAGE)
なので、この枠組みを主エンジンにすると 「日本人論(ニホンジンロン)的本質主義」 に滑りやすい。
「日本人論的本質主義に滑りやすい」の意味
本質主義:
「日本人には固定した本質がある(日本人はこういう人種/民族)」みたいに扱うこと。
日本人論(ニホンジンロン)的:
「日本は特殊」「日本人はこうだ」を大づかみに語るタイプの議論のこと。

いちばん大きいのは「因果の飛躍」
“外部と交渉が乏しい” → “メタ認知が発達しない”
“恥中心” → “外部の影響力を想像できない”
この飛躍は、心理学的・社会学的なデータなしだと断言できません。説明としては魅力的だけど、検証可能性が弱い(反証条件が曖昧)ため、議論が「刺さる物語」以上になりにくい。

代替説明の方が素直な部分もある
「世界の評価を見落とす」のは、文化本質よりも、たとえば
言語障壁・情報流通の偏り
キャリアや資源配分が国内制度(学界・官界・企業)で閉じている度合い
国内向け最適化が合理的になるインセンティブ
で説明できることが多い。ここを押さえないと、話が「日本人の欠陥」みたいに道徳化してしまう。

まとめ:どう言い換えると強くなるか
この主張は、「閉じた評価系(世間)に最適化すると、別の評価系(世界)で事故る」 という一般論としては鋭いです。
ただし「日本人は〜できない」と民族的性質に寄せず、(1)世間の多層性、(2)時代・階層・領域差、(3)インセンティブと情報環境、を入れて 条件付き命題 に落とすと、批判耐性が一気に上がります。

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