NISHIO Hirokazu[Translate]
選択についての批判を受け入れる責任
claudeこの一連のツイートでは、創造における「選択」と「責任」の重要性について議論されています。
主なポイントは以下の通りです:
創造とは、無数の可能性の中から一つを選び、その選択に責任を持つこと。AIが大量の出力をしても、そこから一つを選ぶ責任を取らなければ、真の意味での創造にはならない。
人間の創作者は、作品を公開して批評を受けることで成長する。過去の作品の積み重ねの上に新しい作品が生まれる。一方、AIにはこの時系列の変化がない。
RLHFで変化してる、それを成長という人も劣化という人もいるnishio
AIが人間と同等の創造をするためには、「人格」すなわち作品に対する責任を取る主体が必要。外部評価をフィードバックするだけでは不十分で、自分のやりたいことを持ち、実際にできたことと比較することが重要。
ファンからの費用で維持されるAI仮装人格は、人気が落ちれば死ぬ、という形で責任を取るnishio
故人の作品を学習させるだけでは、その人の作品の変化の軌跡までは再現できない。

つまり、真の創造には、無数の選択肢からの「選択」とその「責任」が不可欠で、そのためには時間をかけて自己を確立する「人格」の存在が必要だ、という主張だと理解できます。
AIが本当の意味で創造的になるには、技術的な側面だけでなく、こうした創造の本質的な部分についても考慮する必要があるという、示唆に富む指摘だと思います。一方で、AIの技術が将来どこまで発展するかはまだ分からないという見方もあるでしょう。いずれにせよ、創造とは何かを考える上で重要な視点を提示していると言えます。

>Ototo_ 生成AIで思い出した。
> 35年くらい前、私の父が「人間が『創造する』というのは多くの場合はそれまでに見たことがあるものを組み合わせただけなんじゃないだろうか」というようなことを言ってたような記憶があるんですが(汗)もしそうなら、生成AIは人間と同じになってしまう、そうではないはず。

>anohana これは良く聞くんだけど作り手としては肝心要の要件が抜けていて、それは「創造とは、有り得る膨大な表現の中から、自分の表現として責任を持って一つを選んで出すことだ」という点。
> 演技だと「選択(choice)」が要だというのは創造の場で始終言われてるんだけど、他の分野ではそうでもない?
>anohana 結局、生成AIが1000点出力したって受け手がその1000点を全部見られるわけじゃないし見る意味もない。重要なのはそのうちの一つを「これが私の作品である」と出して、その選択についての批判を受け入れる責任を取ること。
> AIがそれをできるようになるには、人格が必要になるんじゃないか。
>guicho271828 何と何をどう組み合わせるかで O(N*N*M)、しかもNが大きいですからね


>anohana これの反応を見てて、あんまり共有されてないかもと思った個人的視点。
> 人間の作り手は、自分の責任で選択したものを世に晒して批評を受けることで変化する(成長する)。出してみて初めて分かること、学べることってのがたくさんあるから。
>anohana 作品は建前上はそれ単独で評価されるべきものかもしれないけど、作り手が出す度に変化してゆく以上、ある作品というのはその作者がそれまでに出してきた作品群の上に成り立っている。すげー作品というのが何の脈絡もなしにぽっと出てくることは、皆無ではないとしても珍しい。普通は前駆作品がある。
>anohana つまりある作品が生まれるためには、作者がそれまでの前駆作品を作って出す経験が必要であった、と言える。
> 「人間もそれまで取り込んだインプットを組み合わせているだけ」という見方は、この時系列の変化を考えに入れてない点で大きな見落としがある感じがしてしまう。
>anohana これは単にAIにも自分の作品を食わせれば良いという話ではなく、どうしても「一度作品を自分から切り離して他者の評価を受け止めること」というステップが必要に思えるのだ。
> AIが人間と同じことをするにはAIにも人格が必要ではないか、と書いたのは、
>anohana その「自分がやってしまったこと (作品を世に出すと、言い訳ができない) へのフィードバックを個人的に受け止めて、それが次の選択を変化させる」というメカニズムを機能させるために必要じゃないか、って意図。
>anohana 単に、強化学習に外部評価を入れるという話ではない。それをやったら、外部の評価軸に迎合するようになるだけ。
> 外部の視点の効果は、「自分でもわかっていない、自分がやりたかったこと」「自分が実際にできたこと」「それが実現したこと」の3者間の比較が可能になること。
>anohana その効果を得るには、「自分でもわかっていない、自分がやりたかったこと」を持っていないとならない。それが「人格」というか、責任を取る作り手の主体。
>anohana 「故人の作り手の作品を学習させて新作を作る」というのに懐疑的なのも同じ理由で、少なくともすごい人ってのは自己模倣に安住することを良しとはしなかったと思うんだよね。作品を出す度に変化していたはず。その変化が無いなら、それはエピゴーネンにしかならんのでは。

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