NISHIO Hirokazu[Translate]
Objectivity, Relativism, and Truth

Gemini 2.5 Pro
以下は、リチャード・ローティが1991年に出版した著作『客観性・相対主義・真理』(Objectivity, Relativism, and Truth)の要約です。本書は、ローティが1980年から1989年にかけて執筆した論文を集めたものです。

中心的な主張:反再現主義Antirepresentationalism
ローティが本書で提示する哲学的な中心的主張は「反再現主義」です。彼は、知識とは心や言語が「実在」を正確に「再現」あるいは「鏡映」するものであるという西洋哲学の伝統的な考え方に反対します。その代わりに、知識とは「現実に対処するために習得された行動習慣」であるというプラグマティズム的な見方を提唱します。この考え方によれば、ある信念や理論の価値は、それが心から独立した実在に「適合」しているかどうかではなく、私たちが世界に対処し、目的を達成する上でどれだけ有効であるかによって決まります。
この立場は、主体と客体、心と世界、言語と事実、現象と実在といった、哲学における多くの伝統的な二元論を解消することを目指しています。

第一部:連帯か、客観性か?
本書の第一部で、ローティは自身の反再現主義を科学、探求、解釈の理解に応用します。
ローティは、人間が意味を探求する二つの主要な方法を対比させます。一つは「客観性」の探求、すなわち自分自身の属する共同体を超越し、非人間的で普遍的な実在とのつながりを確立しようとする試みです。もう一つは「連帯」の探求、すなわち自分自身を特定の共同体の一員とみなし、それを誇りに思うことです。
ローティは、客観性を追求する伝統(プラトンから啓蒙主義まで)は、形而上学的な慰めを求める試みであり、「理性」や「科学的方法」によってあらゆる文化を評価するための普遍的な基準を見つけようとするものだと考えます。
ローティは客観性の追求を放棄し、代わりに「連帯」を受け入れることを主張します。プラグマティズムの観点から見れば、「真理」とは「私たちが信じるのが善いこと」であり、信念を判断する基準は私たち自身の共同体の信念や実践からしか得られません。彼はこの立場を「自民族中心主義(ethnocentrism, エスノセントリズム)」と呼びますが、これは軽蔑的な意味ではなく、私たちが自身の歴史や文化の制約から逃れることはできず、既存の信念から出発するしかないということを指しています。
ローティは、「客観性」の典型としての科学の特別な地位に異議を唱えます。彼によれば、科学の成功は、それが「実在そのもの」に触れることができる特別な方法を持っているからではなく、それが「連帯」という卓越した共同体の実践モデルを確立したからです。科学の美徳とは、寛容、他者の意見の尊重、力ではなく説得に頼ることといった道徳的な美徳です。科学共同体は「非強制的な合意」の模範であり、それゆえに政治や芸術といった他の文化領域のモデルとなり得ますが、これは科学が他の領域よりも「認識論的に優れている」とか「理性的だ」ということを意味するものではありません。
テクストと塊Texts and Lumps):ローティは、人文科学(「テクスト」を扱う)と自然科学(「」を扱う)の間の伝統的な溝を解消することを目指します。彼によれば、科学的事実のいわゆる「堅固さ」は、塊の内的本質に由来するのではなく、どのような出来事が証拠となるかについて科学共同体内部で確立された強固な合意に由来します。テクストを解釈する場合でも、塊を分析する場合でも、探求の本質は「再文脈化recontextualization)」、すなわち、ある対象を新たな信念の網の目の中に置いて再記述し、一貫性を達成することにあります。

第二部:プラグマティズム、デイヴィドソン、真理
第二部では、主に哲学者ドナルド・デイヴィドソンの思想を参考にしながら、言語、真理、再現といった哲学的問題が深く掘り下げられます。
真理の対応説」への反対:
ローティはデイヴィドソンの見解を取り入れ、「真理」という概念には説明的な用途がないと主張します。ある信念が「真である」と言うことは、それがなぜ行動を成功に導くのかを説明するものではなく、単にそれに賛同の意を示すため、あるいは特定の言語ゲームの中で使われる道具に過ぎません。ローティは、信念の正当化は他の信念との関係からのみ生じ、非信念的な「実在」との関係からは生じないとするデイヴィドソンの「真理の整合説」を支持します。
ローティは、全ての出来事(心理的な出来事も含む)は物理的な用語で記述できるという物理主義を支持します。しかし、これは「還元主義」ではありません。一つの心理的な出来事(例えば一つの信念)と一つの物理的な出来事(例えば一つの脳の状態)は、異なる予測や説明の目的のために用いられる、同一の出来事に対する二つの異なる記述であり得ます。この二つの記述語彙は正確に翻訳し合うことはできませんが、だからといって心的世界が物理的世界に「還元」できるわけでも、どちらか一方の記述が他方より「真実」であるわけでもありません。
隠喩の創造性(Metaphor):
ローティは、隠喩には「隠喩的意味」はなく、字義通りの意味しかないというデイヴィドソンの見解を採用します。隠喩の価値は、それが一種の「不慣れなノイズ」として機能し、私たちに信念の網の目を再構築させ、新しい言語と思考を創造するきっかけを与える点にあります。これによって知識と文化の進歩が促されます。隠喩は新しい知識の「表現」ではなく、変革の「原因」なのです。

第三部:哲学に対する民主主義の優先性
第三部で、ローティは自身の反再現主義的な哲学の立場を政治領域、特に自由民主主義の擁護に応用します。
ジョン・ロールズの思想に倣い、ローティは自由民主主義制度が「哲学的基礎づけ」を必要としないと主張します。ジェファーソンが宗教を「私事化」したように、ロールズ流の自由主義者は、人間性や自己の本質といった形而上学的な問題を「私事化」し、公的な政治領域から切り離すべきです。ある自由社会の正義の概念の正当性は、それが先験的な「人間性」や「道徳秩序」に合致しているかどうかではなく、その社会の「深く根ざした公的伝統」や「熟慮された信念」と整合しているかどうかによって決まります。
ローティは、彼が「ポストモダン的ブルジョワ自由主義」と呼ぶ立場を擁護します。この立場は、自由民主主義の制度と実践に忠実でありながら、それを支えてきた伝統的な啓蒙哲学(カント的な普遍的人権や理性の観念など)を放棄します。この見方によれば、道徳とは普遍的理性への服従ではなく、自身が属する共同体への忠誠(「我々の意図」)です。道徳的主体とは、中心を持たず、信念と欲望からなる絶えず再編成される網の目です。
ローティは、自由主義の理想(手続き的正義や人間の平等など)が西洋特有の地域的な産物であることを認めても、私たちがそのために戦う理由が弱まることはないと考えます。自由主義者はこの「自民族中心主義」を受け入れるべきであり、つまり自分たちの伝統からしか出発できないことを認めるべきです。しかし、西洋的自由主義という「我々の民族」の特徴は、まさにその開放性、自己批判能力、そして共感の範囲を絶えず拡大しようとする意欲にあります。ローティのユートピアは、普遍的な人間性が「解放」されるのを待つのではなく、「たくさんの排他的なプライベートクラブに囲まれたバザール市場」のように、異なる文化や共同体が平和的な交渉と相互の寛容を通じて形成される「コスモポリタニズム」です。

要約すると、『客観性・相対主義・真理』は、ローティの成熟したプラグマティズム哲学を体系的に詳述した書です。彼は、哲学が客観性、基礎、普遍性を追求することを放棄し、代わりに歴史主義的、自民族中心主義的、対話的な立場を受け入れることを提唱し、この哲学的な立場こそが自由民主主義社会を擁護し、前進させるための最良の方法であると論じています。

"Engineer's way of creating knowledge" the English version of my book is now available on [Engineer's way of creating knowledge]

(C)NISHIO Hirokazu / Converted from [Scrapbox] at [Edit]