NISHIO Hirokazu[Translate]
よいどれネイティブアメリカン問題
o3「よいどれネイティブアメリカン問題」(原題 The Drunken Indian and the Kidney Machine)とは、人工透析機が不足していた米南西部で、アルコール依存のネイティブ男性が順番待ちを経て透析を受け続けながらも飲酒をやめず、最終的に合併症で死亡した――という実話をもとにした倫理ケースです。人種・貧困・依存症・医療資源配分が交差するこの事例を、文化人類学者クリフォード・ギアツは「未来のエスノセントリズム」を論じる足がかりに使い、哲学者リチャード・ローティはリベラルな手続き的正義の成功例として再解釈しました。両者の対比は、相対主義/普遍主義論争における「想像力」と「手続き」の張り合いを示しています。以下では①事例の概要、②ギアツの視点、③ローティの応答、④両者の射程と含意の順に整理します。

1. 事例の概要

人工腎臓の希少性
高価な透析装置が数台しかない時代、政府プログラムは〈重症度と申請順〉で利用者を選定していた。
患者の行動
ネイティブ男性は列に早く並び装置を確保したが、「飲酒はやめないし治療は続ける」と宣言し、医師の禁酒指示を拒否した。
最終結果
数年間の透析後、飲酒由来の合併症で死亡。医療スタッフは「他の患者の生命を奪ったのでは」と苦悩した。

論点
1. 稀少資源を自己破壊的な生活を続ける人に割くことは正当か
2. 文化的背景(植民地化とアルコール被害の歴史)を考慮すべきか
3. 医師は価値判断か手続き遵守か、どちらを優先すべきか

2. ギアツの読み――「想像力」と〈反・反相対主義

ギアツはタナー講義「The Uses of Diversity」(1985)で本件を導入し、「エスノセントリズム(自文化中心主義)はゼロか全面肯定かの二択ではなく、他者理解の想像力が鍵だ」と主張。
彼は「もっと相対主義を/もっと普遍主義を」という処方箋のどちらでも問題は解けず、医療側と患者側が互いの意味世界を理解し損ねたことこそが悲劇だと見る。
背景には「アルコール依存は植民地的暴力の帰結であり、単なる個人の自堕落ではない」という視座がある。
"この経緯を考慮にいれるべきだ v.s. いれるべきではない"という対立構造があったわけnishio

要点: 価値衝突を“文化の窓”越しに想像し直す想像力こそ必要であり、単純な規則適用では倫理的納得は得られない。

補足nishioo3
“反・反相対主義”はギアツが1984年の講演で掲げた “Anti Anti‑Relativism” の邦訳にあたり,「相対主義そのものを擁護する」のではなく「相対主義批判(=anti‑relativism)の乱暴さに反対する」という二段階否定の立場を示す用語です。
ローティはこれを継承しつつ,1989年の論文で “anti‑anti‑ethnocentrism反・反エスノセントリズム)” と言い換え,「われわれはつねに何らかの文化的立場エスノセントリズム)からしか語れないのだから,それを無根拠と決めつける〈反エスノセントリズム〉を批判する」という意味で用いました。
両者はともに「絶対主義 v.s. 相対主義」という二項対立を溶かし,「理解と対話のための想像力」(ギアツ) と「手続きと連帯の実用主義」(ローティ) を提案します

3. ローティの応答――リベラリズムと手続き正義

ローティは「On Ethnocentrism: A Reply to Clifford Geertz」(1989)および 「Objectivity, Relativism, and Truth」(1991) で反論。
彼は「申請順待機列のルールが公正に適用され、メディア監視も機能した。リベラル民主主義の制度はうまく働いたではないか」と評価。
患者の民族・生活史は判断基準ではなく、「誰にでも開かれた公平な手続き」があれば十分という“手続き的プラグマティズム”を示す。
その上でローティは「価値は常に自文化の語彙で語られる=“反・反相対主義”」としつつも、実務的にはリベラル制度を守ればよいと楽観的に構える。

要点:文化理解よりも、匿名化する手続きがあれば十分という立場。

4. 対比と含意

_
観点ギアツローティ
イシューの核心想像力多文化状況での意味の衝突手続き公正なルールの運用
倫理的評価事例は「やりきれなさ」を示す事例は「リベラル制度の勝利」を示す
処方箋相互理解を拡げる厚い記述ルール遵守言論の自由

両者の相違は、
1. 倫理判断の単位――〈歴史と語り〉か〈現在のルール〉か、
2. 相対主義への態度――「想像力で越える」か「手続きで迂回する」か、
に集約できる。

5. なぜ今でも重要か

医療リソース配分
(臓器移植優先順位など)で文化的・社会的要因を考慮すべきかは現在も議論が続く。
依存症と先住民差別
依然として構造的問題であり、「酔っぱらいの自己責任」説だけでは済まない。
ローティ的楽観が見落とす歴史的暴力に、ポストコロニアル理論や先住民研究が批判を加えている。

まとめ

「よいどれネイティブアメリカン問題」は、
資源配分の合理性と文化的・歴史的正義のあいだの緊張を可視化し、
ギアツは“想像力ある相互理解”を、ローティは“手続き正義”を解として提示した――という両者の差異を通じ、
相対主義か普遍主義かという古典的問いに「文化記述」と「制度設計」の両輪が不可欠だと教えてくれます。


備考
当時の言葉遣いを直訳すると「よいどれインディアン問題」となるが、朱 喜哲が「バザールとクラブ」の中でOn Ethnocentrism: A Reply to Clifford Geertzの翻訳をした際に現代の文脈に配慮して「酔いどれネイティブ・アメリカン問題」としているので踏襲した

"Engineer's way of creating knowledge" the English version of my book is now available on [Engineer's way of creating knowledge]

(C)NISHIO Hirokazu / Converted from [Scrapbox] at [Edit]