リリースは手放し
英語の
release には、握っていた手を開く、拘束を解く、外へ放つ、という身体的な感覚がある。
ところが日本語の「
リリース」は、主に製品の公開、作品の発売、ソフトウェアの提供開始を表す工程名になっている。「
手放す」という元の感覚は、カタカナ語になったことで見えにくくなった。
しかし、何かをリリースするとは、単に完成品を公開することではない。それまで自分の管理下にあったものを、他者が使い、解釈し、評価し、場合によっては作者の意図しない仕方で変化させる領域へ送り出すことだ。
だからリリースに必要なのは、必ずしも
完成ではない。これ以上握り続けることをやめる、という
決断である。未完成さを残したままでも、自分だけのものではなくなることを受け入れる。
もちろん、
手放すことは捨てることではない。ソフトウェアなら、リリース後も修正や更新を続けられる。それでも、公開前と公開後では決定的に違う。公開後には利用者が存在し、その期待や経験が、作り手だけでは巻き戻せない現実になる。
「リリースしないと学べない」「なぜなのか」という話をしてて「リリースをするということは自分が100%コントロールしていたものを手放すことだからだ、100%コントロールできていると学べない」という話になった
面白いのでメモしようとしていて気づいた
> リリースという言葉のニュアンスについて。 意識したことがなかったけど「手放す」との関連があるよね
> 日本語でリリースとカタカナ語にした時にそのニュアンスが失われているよね
これを記事に書いてって言ったら冒頭のものがGPT5.5 Sol Middleによって作られた
「100%コントロールできている状態でいたい」という人と、さっさとリリース(=手放し)してもいい人とがいる
コントロールできない領域にリリースすることで予期しない状態が発生することを「失敗」と考えていて、かつ失敗を先延ばしにしたいと思っていると、リリースが先延ばしになってしまう
さっさとリリースする人は予期しないことが起こることについて「えー、そんなこと起こるんだ、面白〜」って感じてる気がする
予期しないこと、1/3がデメリットのあることで、2/3がメリットのあることなので、たくさん出せば平均的には得をする
なんだけどデメリットあるやつの方が早く来る傾向があるから最初に一旦沈むんだよな