川喜田二郎の男女観
川喜田二郎の1960年代の著書を見ていると男女の差に関する記述が時々ある。2020年代の僕から見ると違和感がある。
川喜田二郎は「女性は抽象化が苦手である」的なことを言う。僕はそうじゃなくて、人の個性として「抽象化が不慣れな人がいる」なのだと思う。
一方で観測事実として
過度の抽象化をする人が男性である確率は高いように思う。それはなぜなのか?
川喜田二郎の視点
発想法 p.71-72
>もとの発言の土の香りをなるべく伝えた一行見出しがよいのである。この点では、しばしば女性のほうがよい記録者になる場合がある。
> 日本の女性の場合は、このような圧縮的な記録能力の点で、たしかに男性よりも抽象化の思索の訓練がたりない。すなわち、発言者の発言の細部やニュアンスなどに捉われすぎて、重点的にエッセンスを描きだすことが苦手なのである。 それゆえに、KJ法のこの第一段階で、女性の記録者は苦しむのである。そのかわり、彼女は、過度の抽象化という男性の陥る落とし穴に陥らず、柔かい土の香りをとどめた、優れた一行見出しを作ることがある。
> これは重大な問題である。 もっと一般的にいうと、日本の社会では男性のほうが女性よりも概して抽象化の能力が高い。 しかし悪いのは、男性のほうが不必要に観念的な言葉でものごとを考えすぎる点である。この傾向は、その男性がインテリであるほど、ますますひどくなるようである。このような欠陥があると、せっかく圧縮した一行見出しが、実態と離れたシンボルと化してしまう危険性がある。その結果は、以後の手続きを実りすくないものとしてしまう。女性は感覚的に部分部分に連続的に密着する習性があるから、それを意味の単元に単位化したり、発言の細部を殺しながらそれを一行見出しとして圧縮化することに苦痛を感ずるのである。重要なことは、発言内容の意味や構造を殺さないまま、その細部を切りすてて圧縮することである。あくまでもコンテキストを重んじるやりかたが必要なのである。
p.77
>実際にやってみると、しばしば大分けから小分けにもってゆこうとする人がいる。これは女性よりも男性に多い。
p.120
>さらに、KJ法を実施する人の精神的な苦痛と喜びにも触れておこう。まず会議における記録係は、「はたして自分は討論の早さについていけるだろうか」とか、「はたして要点を圧縮的にとらえ、一行見出しに表現できようか」という不安のために、相当の精神的重圧を感ずる。ことにそれは女性の場合においていちじるしい。しかし、思いきって背水の陣をしいてみると、案ずるよりは生むが易しということになる。
僕の視点
慣れを生み出す「経験」に男女の文化の偏りがある
例えば
小さな
紙切れに他人が読むことを想定したメッセージを書く経験
メモ帳に自分が短期的に読むためだけのメモを書く場合、単語だけとかになりがち、KJ法のラベルや表札でも同じようなことをしがち
他人が読むためには十分な文脈情報が必要
読む人に対する配慮
一週間後の自分は他人なので配慮がなければ自分にも読めなくなる
一方で紙は小さいのでコンパクトにまとめる必要がある
関連してワンポイントイラストを描いた経験も差がありそう
自分の精神を観察する経験
KJ法がうまくできている状態かどうかは、自分の精神を観察することによってわかる
自分の精神の調子が良くなったり悪くなったりするものだと認識しているかどうか
女性は自分や身近な人がホルモンバランスの変化によって影響を受けることで「調子が変化するものだ」と実感を持ちやすい
妻の視点(僕がまとめたので僕の解釈が入ってる)
そもそも当時のワークショップは、大部分が男性で、そこに権威者として川喜田二郎がいる
強いボス猿がいる状況でのオス猿な振る舞い
周囲のメンバーと比べて自分が優れた個体であることをアピールしようとする
バカだと思われたくない
自覚なきカッコつけ

なるほど、だからカッコをつけて過度の抽象化をしてしまうわけか
川喜田二郎自身も
「男性よりも抽象化の思索の訓練がたりない」
「男性のほうが女性よりも概して抽象化の能力が高い」
のような書き方をしていて、抽象化能力が高い方が優れている的な価値観がにじみ出している
価値観反転をしたらいいんじゃないかな
「男性には、女性よりも感情センシングが足りない人が多い」
「女性の方が男性よりも概して感情センシングの能力が高い」
一方で女性は、すでに「バカだと思われている」と認識して、その状況に適応している
バカだと思われることについて諦めている
なので「カッコをつけた表現にしよう」というインセンティブが働かない

その状況だと発言の記録者をやるのは嫌だなぁ
オス猿同士がカッコをつけあって中身のない空っぽの抽象概念で議論ごっこをしている
適切に要約すると「中身がなかった」になるわけだが、それをやると「お前がバカだから議事録を取れなかったのだ」と責められる
セルフケア
自分の状態をモニタリングして自分をケアする
昭和の男性はこの能力が低い
なぜなら「ケアは女がすることだ」と考えていたから
セルフケアを「つがいになれなかった弱いオスがやること」「カッコ悪いこと」と認識していた
かつては女性が経済的に従属していたからその状態でも安定していた
今は熟年離婚などにつながる