觀去來品

この章は、
中論の第2章「
観去来品」の要約です。主な論点は以下の通りです:
1. 「去」(動き)と「去者」(動く者)の関係性を分析
2. 過去・現在・未来の三時制における「去」の概念を批判的に検討
3. 「去」と「去者」の一致性と差異性を否定
4. 「住」(静止)と「住者」(静止する者)についても同様の論理で分析
5. 眼で見える現象世界の実在性に疑問を投げかける
「已去」(すでに去った)には「去」はない
「未去」(まだ去っていない)にも「去」はない
「去時」(去っている時)にも独立した「去」は存在しない
「去者」と「去法」(去ること)は
相互依存的で、独立して存在しない
「去」と「去者」が同一であることも、別々であることも論理的に成立しない
結論として、龍樹は「去」「去者」「所去処」(行く場所)はすべて実体として存在せず、相互依存的な仮の存在(仮名)であり、幻のようなものだと主張しています。この分析を通じて、龍樹は現象世界の実在性に疑問を投げかけ、空(śūnyatā)の思想を展開しています。
AIは正しく汲み取って言葉を補っている、賢い
> 「去時」(去っている時)にも独立した「去」は存在しない
重要なのはここ
若し去時に去があるならば、則ち二種の去がある
一つは去時と言い、二つは去時の去と言う
この部分は以下のように説明できます:
もし「去時」(行っている最中)に「去」(行くこと)があると主張するならば、そこには二種類の「去」が存在することになってしまいます。
「去時」そのもの(行っている時間や状態)
「去時の去」(行っている最中の行くという動作)
龍樹はここで、「去時に去がある」という主張が論理的に矛盾を含んでいることを指摘しています。なぜなら、そう主張すると「去」という概念が不必要に二重化されてしまうからです。これは中観派の論理で、概念の実体化を批判し、その空性を示すための議論の一部です。
去者と去は
不一不異の存在なので、去時に去があると考えると、そもそも「去が去者と独立に存在する」はおかしいし、独立してないとすると去者が二つになっておかしい

去時と"不一不異の去者と去"の関係は?

去時と"不一不異の去者と去"の関係:
去時(行っている最中)は、去者と去の関係が顕在化する場面と考えられます。しかし、去時自体も「
不一不異」の原則に従います:
去時は去者と去から完全に独立していません(でなければ、何の「時」なのかわからなくなります)。
しかし、去時は去者や去そのものとも同一ではありません(時間の概念は行為や行為者とは異なるため)。
龍樹の議論は、これらの概念(去者、去、去時)が
相互依存的で、独立した実体として存在しないことを示そうとしています。これにより、すべての現象の
空性(
独立した自性の欠如)を指摘しているのです。
このような分析は、日常的な認識や言語使用の限界を示し、究極的な実在についての深い洞察を促すものです。
つまりこういうことだね
