NISHIO Hirokazu[Translate]
同一性なしの継続
継続」の概念が「同一物が後の時刻にもある」ではなく「因果関係が途切れない」だとするなら「同一性なしの継続」が可能という話
実際、特に物理的物体の時に前者を強く連想しがちだが、後者の意味で「継続」を使ってるよな
100年継続している会社や国家は初期の人はみんな死んでる


nishio仏教の輪廻の概念は何由来?
GPT5
仏教の輪廻観は、仏教がゼロから作ったものではなく、古代インドにすでにあった「業(カルマ)と再生」の思想を引き継いだものです。とくに、後期ヴェーダ時代からウパニシャッドにかけて、生死を繰り返す流転(サンサーラ)と、そこからの解脱という発想がはっきりしてきます。仏教はその共通土台の上に成立しました。
ただし、そのまま借りたわけではありません。ヒンドゥー系やジャイナ系では、輪廻する主体として恒常的な自己・魂を想定する傾向がありますが、仏教は無我を立てるため、「同じ魂が移る」のではなく、因果の連鎖によって再生が起こると捉え直しました。つまり、輪廻の枠組み自体は共有しつつ、仏教はその内部構造を大きく組み替えています。
もう少し歴史的に言うと、起源は単純に「バラモン教由来」と断定するより、後期ヴェーダ=ウパニシャッド的伝統と、同時代の沙門(śramaṇa)運動の思想的環境の両方の中で育った、と見るのが自然です。少なくとも、ブッダ以前のインドではすでに輪廻・業・解脱をめぐる議論が広く存在しており、仏教はその議論に参加しつつ独自の答えを出した、という理解がいちばん妥当です。
nishio
>仏教はその議論に参加しつつ独自の答えを出した
独自の答えとは?
GPT5仏教の「独自の答え」は同じ問題(なぜ苦しみが続くのか/どう終わらせるか)に対して、構造の前提を変えたことにあります。
1. 「主体」を否定した(無我)
他の伝統:輪廻するのはアートマン(自己・魂)
仏教:固定的な自己は存在しない(無我)
それでも再生は起こる → 因果の連鎖だけが続く
つまり「誰が生まれ変わるのか?」という問い自体を崩す。
一行で言うと:
従来:「魂が輪廻する世界」
仏教:「因果だけが連鎖するプロセス」
もう一歩踏み込むと、この転換はかなり radical で「同一性なしで継続がありうるのか?」「責任や倫理はどこに宿るのか?」という哲学問題を含んでいます。
このあたりは、現代の「情報としての自己」「プロセスとしての主体」の議論とも接続できます。
nishio同一性なしで継続がありうるのか?
GPT5結論から言うと、「同一性なしの継続」は可能だが、直感的な“同じものが続く”とは違う形になる、というのが仏教の立場です。
1. 仏教の答え:同一でも別物でもない
仏教はこの問いに対して、はっきりした二択を拒否します。
同一(まったく同じものが続く)でもない
別物(完全に無関係)でもない
この立場はよく「非同一・非別異」と呼ばれます。
鍵になるのは 縁起 です。
ある状態が、前の状態に依存して生じる
つまり、「同じものが移動する」のではなく因果関係が連続している。
2. 例:炎の比喩
よく使われる例:
ろうそくの炎を次のろうそくに移す
同じ炎か? → 物理的には違う
無関係か? → 明らかに関係している
3. 「同一性」がなくても成立する理由
ポイントは、「継続」を定義し直していることです。
通常の直感:
継続 = 同じものが時間をまたぐ
仏教的な定義:
継続 = 因果関係が途切れない
だから、自己(アートマン)がなくても行為の結果(業)は次に影響する
4. 現代的に言い換えると
いくつか対応する見方があります:
(a) 情報の連鎖
データがコピーされ続ける
元の実体はなくてもパターンは続く
(b) プロセスとしての自己
自己は「状態の更新過程」
固定された実体ではない
これはデレク・パーフィットの議論(人格の同一性)にも近い。



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