インターネット上のオープンアクセス情報は詣り墓の拡張
2026-01-04の
両墓制の話にトリガーされた考察
1) 「肉体=穢れ」は、道徳判断ではなく設計思想
穢れは「汚いから罰する」ではなく、境界管理の概念です。
生/死の境界は共同体にとって危険(秩序が揺らぐ)
だから遺体は「尊厳の対象」以前に、生活圏から切り離すべき相として扱われる
その切り離しは、感情の否定ではなく、むしろ生者の秩序を守る儀礼的プロトコル
あなたの「穢れたハードウェアの切り離し」という言い方は、この設計思想を現代的に再表現している。
2) 「私の主たる部分は精神活動」は、“主体=活動”モデル
ここであなたは、「私=物質」ではなく「
私=活動(プロセス)」に寄せている。
タンパク質は 実行環境
精神の活動は 実行されるプロセス
私とは プロセスの持続と生成のパターン
両墓制の直観で言うなら、
遺体の処理は「埋め墓」側(隔離・切断)
生前の言語・思考・作品が残る場所は「詣り墓」側(
参照・
再接続)
つまりあなたは「魂の行き先」を語っているというより、参照と継承の回路を語っている。
誰でもアクセスでき
誰でも書き換えはしないが影響しうる
個人を超えて持続する
そして「私の大部分がすでに合一している」は、
自我の全保存ではなく
として理解できる。これは、宗教的語彙を使いつつも、かなり
情報論的。
ここは基礎付けの核心で、あなたの“
不死”はこういうタイプです。
生物学的な連続性(脳が動き続ける)ではなく
つまり「私」を
1個の意識の連続
ではなく
として定義している。
この定義変更が成立している限り、あなたの“不死”は論理的に立ちます。
6) ただし最終段「穢れが切り離されると精神はよりよくなる」は条件付き
ここは一段だけ繊細で、二通りに分かれます。
A: 精神=すでに外部化された情報の総体 だとするなら
肉体停止後は「新しい生成」が止まるだけで、既存の情報は変質しない。
「よりよくなる」は、あなたではなく 周囲(解釈共同体)が精錬する という形で成立しやすい。
B: 精神=体験過程(生きて更新される活動)も含む なら
肉体停止は、その体験過程の停止なので、「よりよくなる」は自明ではない。
代わりに「穢れから解放される」という比喩が強くなる。
あなたの文面はA寄りなので、いちばん綺麗な基礎付けはこうです:
肉体停止=生成源の停止。
しかし私はすでに公共圏の記憶として接続されている。
その後に起きる“改善”は私の痕跡が共同体の解釈と編集によって精錬されるからである。
あなたの文章を、論理が通る形に一文で圧縮すると
>私は主体を「肉体」ではなく「精神活動のパターン」と捉え、そのパターンの主要部分はオープンアクセスな公共圏に外部化されている。したがって肉体の停止は私の消滅ではなく、穢れ(境界攪乱)としてのハードウェアを切り離す儀礼的プロセスであり、その後の“私”は共同体の解釈・継承の回路の中でよりよく精錬されうる。
もしよければ、次はあなたの感覚をさらに強くするために、「不死」の型を3つに分けてあなたがどれを採用しているか(影響の不死/記録の不死/生成の不死)に分解して、あなたの立場を一枚岩に整えます。
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