ハンナアーレントの勇気と匿名性
ハンナ・アーレントにとって、
勇気と
匿名性はかなり深いところで対立する概念です。特に『人間の条件』の「活動 action」の議論から見ると分かりやすいです。
アーレントにとって勇気とは、危険に立ち向かうことだけでなく、他者の前に現れ、自分が「誰であるか」を晒すことです。
『人間の条件』では、人は公的空間で語り、行為することで who(誰であるか)を現します。その結果や他者の評価は制御できない。だから公共的な活動には勇気が必要です。
ここから匿名性との緊張が生じます。匿名なら意見は表明できても、「誰がその言葉を引き受けているのか」は隠せる。アーレント的には、これは政治的活動の重要な部分を弱めます。
ただし、単純な「実名=善、匿名=悪」ではありません。重要なのは実名より appearance(現れ) です。固定した仮名で継続的に他者と関係を築くなら、匿名でも「誰か」として現れうる。
戸籍上の名前であることではなく、継続的に使われるハンドルネームであることが大事、そのハンドルネームがたまたま戸籍名であっても良い、という感じ

現代的には、
匿名性 → 発言しやすくする
非匿名性 → 発言を主体に結びつけ、責任や勇気を生む
という緊張関係として捉えられます。
>kawamura_nodoka ハンナ・アーレントの『人間の条件』には「勇気」について書かれた一節がある。活動や言論を探究する文脈で口にされる「勇気」とは、自らの言動の結果を引き受けることだと思いそうになるが、アーレンはむしろ真逆のことを言う。曰く、「今日、英雄に欠くことのできない特質と考えられている勇気という
>kawamura_nodoka 意味は、ともかく自ら進んで活動し、語り、自身を世界の中に挿入し、自分の物語を始めるという自発性の中に、すでに現れている。そして、この勇気は、必ずしも、結果を自ら進んで引き受けるという自発性と結びついているものではないし、それが不可欠なものでさえない」。
>kawamura_nodoka 「自分の私的な隠れ場所を去って、自分がだれであるかを示し、自分自身を暴露し、身を曝す」こと——つまり匿名ではなく実名で活動することこそが「勇気」なのだ。ただし、これをSNS上の匿名アカウントが云々と読むのはつまらない。この一節がある章は「出生」についてふれられたものであり、突き合わせ
>kawamura_nodoka て考えるなら、人生における選択を、匿名ではなく実名で決定することを指したのがアーレンの「勇気」なのではないか。言い換えれば人は、「勇気」を持たない限り、自分の人生の決定すら匿名的に——世間的な価値観や誰かの声に従って——行ってしまう。